混沌

f:id:maru-and-kako:20200405213823j:plain

MY SWEETBOY

世の中は混沌としていて、未だかつて経験の無い状況にNATTEIRUけれども、自分はそこに地に足をつけていたいとそう思う。

それはそれで、不安がないわけではないけれども、先のことで一喜一憂していると疲れてしますから。その日その瞬間幸せであればそれでいい。

たとえば、写真のようなこういう瞬間。例えば、謎の野菜が思いの外美味しかった時とか。15年続けていても中々年々体力的に難かしくなるYOGAのポーズのホールドが最長に達した時とか。

こんな時だから、新たに地味に小さなことを、例えば今みたいに久しぶりに日記を書いてみるとか。

今やっていることは、今の自分自身が求めている事だという事。それによって、心が救われている事。

 

 

秋が来ている

f:id:maru-and-kako:20160909152833j:image

 

1年前の私は今の私を少しでも想像出来ただろうか?

きっと出来なかっただろう。

或る日突然自分が一生懸命守っていたものが消えてしまうなんてことを。

それでも自分がそれなりに生きていることを。

犬しか飼ったことがない自分が、猫の親子に癒され救われる毎日を送っていることを。

そして彼女らが、同じ家にいたのに疎遠だった私たち兄弟をも繋ぎ救っていることを。

自分の興味の対象が180ど変わってしまったことを。

家にいなかったことを後悔し張り付くように家にいること。

家事全般に楽しみを得ていること。

英語以外に中国語も始めたこと。

そしてまさか自分が夏休みに中国へ出かけたということ。

 

そして、10ヶ月前から抱き続ける喪失感をその旅行から次の目的を持つことができたこと。

 

確かに母は物体としての母は亡くなってしまった。

けれど、存在を感じない日はなく、受けた愛情や彼女の思いのようなものは日々感じる。

人は大切なものを失った時後悔しない人なんていないと思う。どんなに些細でも。

後悔だけれども、それによって前にむかされる。

生きて、親孝行をする。

母が守りたかったものを守り抜いて。

親孝行をする。

私が笑って生きていることが、彼女への最大の親孝行だと思うから。

 

与えられたところで、身の丈に合った幸せを感じて、生きていこうと決めたんだ。

 

私の前にやってきた、2匹のメスの猫は、傍にいるというだけで、私を心から救ってくれている。

 

亡くなった母を見つけたあの晩の恐怖は、穏やかな静かな生活に変わっている。

 

晴れた日、たまった洗濯を洗濯し干し、家中の床を水拭きし、布団やラグやクッションを天日に干し、ひと息つきながらコーヒーを飲む。

その気持ちよさ、心地よさ。穏やかさが、身体中にしみる。

それでも時折後悔の念が浮上する。

書き出したら止まらない位の後悔が。

 

それを消すためにまた、何かに集中する。

ジャガイモの皮をむいたり。

玉ねぎを刻んだり。

ぬか床をかき混ぜたり。

 

私は生きてやる。

父の分も、母の分も。生きてやる。

 

 

断捨離中

数ヶ月前から友人に勧められて、携帯のフリマアプリで不用品を売り始めた。
捨ててしまうよりは使ってくださる人に使っていただいた方が良いということで初めて見た。
そこで気がついたことは自分がこんなに無駄に物に囲まれていたことと、それらがなくなったところで、困らない事。
女の人は香水が好きな事と、世の中の主婦は上手にお小遣いを稼いでいる事。
正直配送は面倒だが、物が減って行くと、思いのほか生活がしやすいという事に気がついた。
必要な物、必要じゃないもの。
いつか着るだろうは、こないという事。
年相応という言葉は確実にあるという事。
また、物を買わなくなる。
ほんとうに心地よく、必要な物以外に興味がなくなってきた。
それはとても新鮮で心地が良い心境だ。

そのお金で旅行でも行こうか?とかちょっと検討中。

傷はまだいえない

4年ほど前、私は仕事でひどく傷ついて異動することになった。

女同士というものはいろいろあるものだけど。

私は競争心と言うものの恐ろしさをまだ知らなかったのかもしれない。

今思うと、そこで異動したからこそ成長できたのかもしれないので、感謝するべきなのかもしれないが。

とある送別会の席でその相手と対峙しなくてはならないことになった。

心も体もフリーズした。

作り笑いしか出来ず、言葉を発することすら出来なかった。

 

私はまだ癒えていないんだと痛感した。

 

それでも、私はその時のことを間違いはしては居ないと思っている。

ただ、今なら、私は間違いは犯していない穿った見方で人を判断するんじゃないと言える自信がある。

 

それでも、人の心に出来た深い深い傷は今でもなお居座るものだと痛感した。

 

私は人を先入観で判断しないように働こう。そう思う。年を重ねたからこそ、そうするべきなんだと思う。

ふと思い出したこと

お人形を抱きしめている赤ちゃんとすれ違ったときに、ふと思い出したことがある。

私が子供の頃いつも持ち歩いていたお人形で思い出深いものは、3つ。

一つ目は特大サイズのキューピーちゃん。

それは、私の手により可哀想だからと、体中に毛という毛を黒いマジックで描き尽くされた上、母が恥ずかしいので遠くまでいって捨てられた。

もう一つは、父が上野動物園で買ってくれたパンダの人形。

名前はたつや。

どうしてたつやなのかは,覚えていませんが。今思うと、ませた幼稚園児だと思う。

それはその一年後に我が家にやってきた、ダックスフンドのドンの歯により、無惨にも壊される。

最後になぜか日常をともに過ごすことになった人形はETのぬいぐるみで、名前はじしゆき君。これまた何故そんな名前なのかは覚えていないが、どこに行くにも持ち歩いていたのはとても覚えているが、その当時からやはりちょっと変わって居たんだろうな。。。。と思う。そして彼もまたダックスフンドのドンに無惨にも壊されたのでした。

女の子には女の子らしいお人形を与えるべきだと、大人になった今はちょっと思うのでした。

エゴに囲まれて

私はヨガをする。もう、10年になる。

普段指導をする立場で働く身には、人の指図のもとに自分自身と向き合ってひたすら集中するだけでいいヨガは合っていて、心地が良いのだ。

しかしながら、時折インストラクターによりペアワークなるものがある。

要はその場で初めてあった人とペアを組んで何かを行うという行為な訳だが、私はこれが大嫌いで、なぜなら日々お客様のエゴと向き合って働いているのにそんなリラックスをするために来ているはずなのに、ペアワークのおかげでそこでも見ず知らずの人のエゴに触れなくてはならない。

それを嫌だと、感じてしまう私のそれもエゴなので、修行が足りないとは思いますが、どうにもこうにも嫌いな訳です。

 

英語の勉強で、なかなか伸びない原因の一つに、間違えることを恥ずかしいと思ってしまうというものがあるけれども、それと同様で、日本人は(私もそもそも日本人だけど)いいかっこしいだから、人前で自分の力量以上に出来ないのにやろうとしてしまう。一歩手前を極めてからの方が次回先に進めるのに。

こうすると、らくだと思いますよ、と伝えても全く聞いてくれない。

基本みんなそうで、いつも、もやもやする。

もやもやするのがいやだから、ペアワーが好きになれないのです。

 

もしかしたら、そこが今年の私のブレイクスルーポイントなのかもしれません。

そんなエゴを受け入れられる懐の深さを身につける年なのかも知れません。

 

ファミレスのガラスにGGが。

f:id:maru-and-kako:20140710211846j:plain


GGとは私の職場で彼はその様に呼ばれている。ようは、じーじだ。

色々辛いことばかりだが、この際開き直って行こうと思う。

考えた所でこの有様だ。
悩むだけ馬鹿らしい。
ただ言えることは、GGは取り敢えず生きてがんばっていると言うことは喜ばしいことだ。

先日英会話でイミグレイションの事を話し合った。
まあ、この先日本の高齢化や出生率の低下を外国人の手を借りてなんと改善して行くという話で、日本の総人口が一億二千七百万ちょっとしか居ないことにもおどろきだが、因みにイギリスはその約半分で。
日本人の割合が何と、98%であると言うことに驚いた。
こんなに毎日中国人相手に仕事して居てもだ。うち、中国人韓国人以外の国の人は0,6%しか居ない。その中にGGのアメリカ国籍やスーザンのイギリス国籍や、フィリピンやブラジルやタイやなんやかやが含まれちゃっていると言うから私の周りのその他に属する人たちを、有る意味レアな人達で貴重な人達だと認識しなくてはならない。

なかなか面白い。


明日は台風。
そんなにすごいのか?ちょっと興味深い。