秋が来ている
1年前の私は今の私を少しでも想像出来ただろうか?
きっと出来なかっただろう。
或る日突然自分が一生懸命守っていたものが消えてしまうなんてことを。
それでも自分がそれなりに生きていることを。
犬しか飼ったことがない自分が、猫の親子に癒され救われる毎日を送っていることを。
そして彼女らが、同じ家にいたのに疎遠だった私たち兄弟をも繋ぎ救っていることを。
自分の興味の対象が180ど変わってしまったことを。
家にいなかったことを後悔し張り付くように家にいること。
家事全般に楽しみを得ていること。
英語以外に中国語も始めたこと。
そしてまさか自分が夏休みに中国へ出かけたということ。
そして、10ヶ月前から抱き続ける喪失感をその旅行から次の目的を持つことができたこと。
確かに母は物体としての母は亡くなってしまった。
けれど、存在を感じない日はなく、受けた愛情や彼女の思いのようなものは日々感じる。
人は大切なものを失った時後悔しない人なんていないと思う。どんなに些細でも。
後悔だけれども、それによって前にむかされる。
生きて、親孝行をする。
母が守りたかったものを守り抜いて。
親孝行をする。
私が笑って生きていることが、彼女への最大の親孝行だと思うから。
与えられたところで、身の丈に合った幸せを感じて、生きていこうと決めたんだ。
私の前にやってきた、2匹のメスの猫は、傍にいるというだけで、私を心から救ってくれている。
亡くなった母を見つけたあの晩の恐怖は、穏やかな静かな生活に変わっている。
晴れた日、たまった洗濯を洗濯し干し、家中の床を水拭きし、布団やラグやクッションを天日に干し、ひと息つきながらコーヒーを飲む。
その気持ちよさ、心地よさ。穏やかさが、身体中にしみる。
それでも時折後悔の念が浮上する。
書き出したら止まらない位の後悔が。
それを消すためにまた、何かに集中する。
ジャガイモの皮をむいたり。
玉ねぎを刻んだり。
ぬか床をかき混ぜたり。
私は生きてやる。
父の分も、母の分も。生きてやる。